かんたん雑記

普通のサラリーマンの普通の日常

頑張りと休息と寿命と保険と能力と胆力と楽しみと苦しみとお金と遺伝と運命と家庭環境について

一度このテーマについて書いたけど、僕は忘れやすいたちなので、忘れた状態で書いてみて、前の書き振りと同じだったらぶれていないということだ。

まず、僕は楽しく生きたい。みんなそうだろう。

楽しいって何だろう。退屈でもなく、忙しくもなく、満足出来て、価値があって、心地よくて、価値があるから満足するのか、満足するから価値があるのか。

楽しい後の苦しみと、苦しみの後の楽しさは後者の方が良いわけで、そうすると終わりよければ全て良しということになるのか。ただ、そう思って頑張っても、途中で死んでしまったら、楽しみなく、苦しみだけなわけで。どこまで生きるのか、どの時点で死ぬのかわかっていれば、お金も苦しみも楽しみもちょうど良い配分が出来るのだろうか。僕は出来なないと思う。

人はいつ死ぬかわからないからこそ、今の楽しみよりも、後の楽しみを求めて、頑張り、お金を貯めるのだろうか。同じ事象に対して、その人の能力、胆力、経験、考え方で楽しみにも苦しみにもなる。能力、胆力を上げるために頑張り、苦しむのか。保険は何かあったときのためのもので、多くの人が保険に入っているが、つまり、何かあることを想定しているわけで、そうすると楽しみを求めて苦しむ、頑張ることについて、保険をかけるとすると、今を楽しむとか散財するということと、等しいだろうか。

悲惨な家庭環境で育った人が普通の生活をしていることに満足するが、素晴らしい家庭環境に育った人は普通の生活では満足しないだろう。多くの人が他人のことを気にするが、他人の目の代表であったテレビという限られた媒体では、他人の目は偏りのあるものさしになってしまうけど、今のようにテレビ以外にもインターネットがある多様な状況では他人の目も様々あるから昔よりは他人の目が気にならなくなるのだろうか。人を殺してはいけないという普遍的な考えはある(最近ではこの考えすら多様性の波に飲み込まれてしまうのかもしれないが)のでそれなりに人の思いは一定の幅に収束しているのかもしれない。

僕はこんなにいそいそと忙しくする必要がないのかもしれないのに、どのような考えでこのように忙しくしているのだろうか。やらなければいい、ほっておけばいい、やめてしまえばいいというところまで行かないのはなぜだろう。過労死した人が働き続けていたのは何故だろう。視野狭窄か。

僕としては早く帰れた日は家族には悪いんだけど、そのまま岩盤浴に行きたい気分なんであって、そのことが良いか悪いかというのは誰が決めるんだろう。僕の思いとしては悪いことだが、例えば妻なんかはこんな中途半端な時間に帰ってきて、子供が起きてしまうよりは岩盤浴に行ってきて、皆が寝静まってから帰ってきた方がよっぽどいいと思うのかもしれないし、岩盤浴に行くことで僕のパフォーマンスが上がるなら、むしろ良いことなのかもしれないし、温泉の経営者は儲かるし、何が良くて何が悪いのかわからないし。そういうわけで、このまま岩盤浴に行く気持ちが高ぶってきました。